玖珠町の歴史や文化をご案内
玖珠の歴史は平安末期、この地方に勢力をもった武士集団・豊後清原氏に始まり、一族の始祖といわれる清原正高は京の公卿でした。醍醐帝の一ノ宮章明親王の姫小松女院と恋に落ちたのが帝に知られ、正高は豊後国に左遷されます。天延元年(973年)玖珠に着いた正高は、山田郷の地頭矢野兼久の娘と結ばれ、嫡子正道が生まれました。あとを追いかけた小松女院は正高が結婚していることを知り、三日月の滝に身をなげました。正高が許されて京に戻ったあとも玖珠に残った正道は3人の子に4郷1荘を与え勢力を広げていきます。
こうして清原氏の祖が11世紀の初め玖珠郷にきて住み着き、子孫が郡司や地頭の職を継いで諸郷を開発しては分家を繰り返し、清原12家とも24家ともいわれる武士団に発展しました。
歴史は、織田・豊臣・江戸時代と移り変わるなかで、「村上源氏」の末裔といわれる「くるしま」氏は秀吉につかえていた時、「来島」の姓をもらい、伊予の(愛媛県)の来島を根城にしていました。関ケ原合戦で西軍に参加して敗れたため流浪の身になったが、来島康親は伝をえて慶長6年(1601年)玖珠・日田・速見郡の1万4千石を与えられ森藩を創始しました。速見郡豊岡(日出町)は森藩の飛び地であり、近くの頭成港は領地内で唯一、海に開けています。参勤交代にはここから船で大阪、そして江戸に向かったものです。 第2代藩主通春が元和2年(1616年)「来島」を「久留島」に改めました。
第12代藩主通靖の世に明治維新を迎えて、廃藩置県となり、久留島通靖は「森県知事」に任命されました。 明治4年(1871年)当時は、いまの玖珠町行政区画内は23村がありましたが、明治22年(1889年)に、森村・万年村・北山田村・八幡村の4つの村に合併しました。その後、森村は明治26年(1893年)森町に、万年村は昭和2年(1927年)玖珠町に改称し、そして昭和30年(1955年)この4町村が合併して、現在の玖珠町となりました。
玖珠ー “くす” と読みます。この地名の由来には、おもしろい民話が語りつがれています。
昔、この盆地には大きな楠(樟)の木がそびえておった。その木陰では作物も育たず、里人は難儀をしておった。と、ある日、大男が通りかかった。里人が懇願すると、大男は苦心の末、ついにその大楠の木を切り倒してしまった。そのきりかぶが、そう、伐株山というわけ.。
こんな話が生まれた育った玖珠盆地は、ゆったりと玖珠川が流れ、まわりをメサが取り囲むのどかな里です。万年山は、我が国最大級のダブルメサ、5月のミヤマキリシマ開花期は見事な美しさを誇ります。屏風を立てたような岩扇山、また福万山、鏡山などの集合メサ郡は全国でも類を見ない雄大な山容で、見る者に深い感動を呼び起こさずにはいません。