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(旧)豊後森機関庫
(旧)豊後森機関庫転車台
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久大線は大正9年から建設が始まり、昭和4年には豊後森駅が開業、昭和9年に久大線が全通した。機関区の設置は、昭和8年に森町に決定し、昭和9年に豊後森機関区が発足した。旧豊後森機関庫は、当初10両機関車庫と機関車庫西端部に技工長室・道具置場がつくられ、その後2両分の機関車庫が増築された。石炭や水等の補給基地として、また急峻な水分峠越えを行うための機関車の交換等で豊後森機関区は非常に重要な役割を果たした。最盛期は昭和23年頃で、車両25両・乗務員他職員217名の配置があったといわれる。
また、昭和20年8月4日には、軍事輸送の拠点となっていたため米軍機の機銃掃射にあい、職員3名が死亡するという惨事も起きた。機関庫の壁には現在も機銃掃射の跡が残っている。
昭和45年9月の久大線無煙化により蒸気機関車が姿を消すと、翌昭和46年4月に豊後森機関区は廃止となる。現在は線路が外され、扇型機関庫と転車台が残るのみとなっている。
その豊後森機関区の中心的建造物である、旧豊後森機関庫は、JR久大本線豊後森駅の南東側に位置し、直径18.5メートルの転車台を中心に半径47.84メートルで放射状に広がっている。構造物は、鉄筋コンクリート造・陸屋根で扇形の機関庫(車両12台収容可能:両端部に技工長室と工具室を設ける)と機関車を車庫に導く鋼鉄製の転車台からなる。転車台の建築面積は268.66平方メートル、直径18.5メートル、主桁は鋼鉄製で、鉄製の運転室が現存している。放置されて40年の経過により、全体は錆色に包まれているが、運転室は窓の木枠や操作盤などが良い状態で残り、風化を感じさせない。また、土台部分はコンクリート構造で、かつてはここから放射線状に多数の線路が駅や機関庫に分岐していた。竣工は昭和9(1934)年、施工者は間組であるが、設計者はわかっていない。増築には、地元の河野組が工事にかかわっている。
かつて九州各地にあった扇形機関庫は、機関庫廃止や老朽化などにより解体され、現在では九州唯一の扇形機関庫となった。また、70年以上にわたりこの地域に建ち続けている玖珠町のシンボルであるともいえる。



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展示しています蒸気機関車29612号は、「キューロク」という愛称で親しまれ、大正8年(1919年)に製造された蒸気機関車です。
この蒸気機関車は、大正8年(1919年)1月から昭和49年(1974年)12月までの55年間、長崎本線や唐津線で旅客、貨物の輸送に日夜活躍し、なかでも昭和20年(1945年)8月9日、長崎に原子爆弾が投下された時期には、多くの人、被災された方々を乗せて走り、人命救助や日本の文化の交流、経済の発展に多大な貢献をしてまいりました。
そして、列車の動力近代化に伴って、昭和49年(1974年)に廃車となり、福岡県志免町の公園にて静態保存されてきましたが、製造されてから94年目になった平成25年(2013年)12月、老朽化による解体処分が公表されたことから、「もうすぐ製造から100年となる蒸気機関車を救って欲しい」との多くの方々からの救済の声が玖珠町に届き始め、志免町様との協議の結果、玖珠町が譲渡を受け、福岡県直方市の汽車倶楽部(代表 江口一紀氏)の方々に補修をお願いして、この豊後森機関庫公園に平成27年(2015年)6月に静態保存することとなりました。

私たちは、この旧豊後森機関庫と転車台とともに、蒸気機関車9600型29612号の雄姿と功績を後世に伝えたいと考えています。

どうか皆さん、いつまでも優しく見守ってください。