歴 史

角牟礼城(つのむれじょう) は、弘安年間(1280)に森朝通によって築かれました。
戦国時代には、豊前大内氏と豊後大友氏との争いで、豊後から豊前宇佐郡へ通じる交通の要衝の地であったため、玖珠郡衆により城はより堅固に修築されました。
天正14年、島津義弘は豊後国への侵攻を開始し、新納忠元を将として玖珠郡に攻め込みました。
しかし角牟礼城には、森氏をはじめ魚返・中島・志津利氏などの玖珠郡衆が籠城、難攻不落の天然の要害に築かれた角牟礼城を島津軍も攻め落とすことが出来ませんでした。
文禄3年(1594)から慶長5年にかけて、日田日隈城主毛利高政が玖珠の拠点として角牟礼城を整備しましたが、慶長6年に久留島氏が入封し、山麓に森陣屋を築いて角牟礼城は廃城となってしまいました。

見どころ<穴太(あのう)積みの石垣>
文禄3年(1594)から慶長5年(1600)にかけて、日田・玖珠を支配した毛利高政(たかまさ) が、玖珠の押えの拠点として整備した時に構築したたとされる「穴太衆積み」の石垣です。穴太衆とは、戦国時代に活躍した、近江坂本(滋賀県大津市)の石積み職人の集団のことです。石垣積みの技としては大きく分けて、野面積み、打込みハギ、切込みハギの三種類があります。穴太積みは、野面積みを代表する積み方で一見雑な積み方に見えますが、強度・安定性では他に引けを取らない強い石組みを築くことができます。その秘密は積み石の比重のかけ方にあり、表面から三分の一くらい奥のところに重力がかかるように石の大きさ・形や組み方を揃えているようです。また、土の水ぶくれによる崩壊を防ぐため、石垣の奥に栗石層、その奥に小石をつめていくなど、排水をよくする工夫もされています。このように目に見えない部分に、穴太積みならではの技法が隠されており、それが四百年の時を越えて今に伝わっています。


 

 

1、 角牟礼の自然
 ① 岩扇山や万年山など天然記念物のメーサに囲まれた玖珠盆地

 ② 玖珠盆地の北端にお盆の中にお椀をふせた様に立つ孤峰のビュート、角埋山

 ③ 豊かな植生と多様な植物群落を有する里山
  ◎ 原生状態に近い照葉樹林帯ウラジロガシ・タブノキ・アラガシ・カゴノキなど
  ◎ 日当りのよい山頂付近の残存林帯アカマツ・コナラ・ヤマツツジなど
  ◎ 伐採地の再生林アラガシ・クロキ・ウラジロガシ・ネムノキなど
  ◎ 育成林
    スギ・シロダモ・タブノキ・マダケなど

2、角牟礼城の歴史
 ①中世の山城 (土塁の城)
・ 天然の要害
・ 土塁、帯曲輪、竪堀による堅固な城1155年 源爲朝築城と伝え、1475年 志賀文書に「角牟礼城」の記録初見、1533年 大内氏の侵攻に備え、土塁、竪堀などの改修(豊後の境目の城)
1587年 島津軍侵攻、6千の軍勢を千余の軍勢で守り抜く(不落の城)

 ②近世初頭の城 (石垣の城・穴太積み)
1594年 毛利高政、2万石で入部領国支配の近世城郭へ1600年 黒田如水によって開城、毛利高政佐伯2万石へ移封

 ③江戸時代、廃城(お止山・入山禁止)
1601年 来島康親1万4千石で入部、麓に陣屋を置き、城下町の整備にかかる

3、角牟礼城の縄張り
 ①本丸(伝)
    標高577m
    比高差240m
    平地東西43m
      南北53m
・ 周囲が土塁に囲まれる
・ 隅櫓の礎石と虎口の遺構
・ 幾段もの帯曲輪が取り巻く

②大手門(伝)
・外枡形虎口
・ 礎石建物跡
     間口9.4m
     奥行き4.4m
・ 出土遺物
     瓦・陶磁器・かんぬき金具など

 ③二の丸(伝)
・ 礎石建物跡
     東西10m、南北7m
・ 遺物
     土師質土器

 ④ 搦手門(伝)
・穴太積み
・馬洗場
・不落の水 

 ⑤ 三の丸(伝)
・ 大きな岩塊を取り込んだ最大の曲輪
・ 石垣と岩塊で曲輪を囲む
・ 多聞櫓外塀
・ 竪堀 南斜面と西斜面に14本
・ 軍事的役割が重視されている